たかがヤマト、されどヤマト | |||||
2017.11.1 JA松山駅発9時03分発の特急に乗り、愛媛県の内子町に行く。朝食は8時からのところを7時45分にしてもらい、市電に乗ってみたかったが間に合わないのでタクシー。JR松山駅は昔の建物のままでなかなか良かった。 内子駅は旧市内と少し離れており、少し歩く。商店街を少し行くと有名な内子座がある(重文)。1916年(大正5年)創設。歴史を感じさせる建物だ。 その内部を見学できる。舞台にも上ることができ、舞台裏の奈落の底まで自由に入ることができる。この日は使われていなかったが、稼働率は思ったより高く60日は劇場として使用されている。年に何度か東京の歌舞伎スターもやって来るとのこと。二階席から見た舞台。距離が近いのでパノラマ合成は無理。 まだ朝早いせいか閑散とした商店街を進むと昔の建物がところどころに現れ、生きのいい魚を準備中の魚屋屋の角を曲がると、古きよき時代の街並が続いていた。和蝋燭を作っている工房もある。当然手作り(5コマ目)。 何やら得体の知れない建物があり、近づくと劇場のようだった。後で調べると旭館という映画館。1926年(大正15年)開設。 シーズンが違うのか、もう観光地としてピークを過ぎたのか人影はほとんどない。しばらくして忽然と全く雰囲気の異なる建物が姿を現した。「大村家住宅」と「本芳我(ほんほがけ)家住宅」。いずれも重文。この重厚な造りはなかなかのもの。いかにもと言った感じ。 本芳我家住宅の庭は公開されており、縦構図で3枚撮り、パノラマ合成してみた。繋ぎ目に破綻箇所があり、やはり近距離では合成は無理なようだ。(破綻箇所はどこでしょうか) さらに進むと、木蝋資料館となっている「上芳我家邸」と、ギャラリーの「中芳我家邸」が隣り合っていた。これもまた、昔の栄華を物語る建物だった。 木蝋資料館とあって、内部を見学できる。内子は明治から大正期にかけて木蝋生産の最盛期を迎えた。当時、日本の木蝋の生産量の3割以上を占め、上芳我家が芳我家の筆頭分家で(本家は本芳我家)、住宅兼工場がそのまま残されている。1階の座敷、炊事場、風呂場(もちろん五右衛門風呂)、厠、その隣に出産部屋があったのはちょっと意外。2階はがらんとした大広間だったが、建物を支える梁が見事だった。木蝋は、ハゼノキの実を粉にし蒸して絞って作る。工程のネックとなる絞り機を改良したのが上芳我とのことで、中庭に面した作業所にそれが残され、その横に1本だけ実をつけたハゼノキがあった。木蝋は、和蝋燭、びんつけ油、口紅、クレヨン、光沢剤などに使われ、輸出もしていたが、大正期にパラフィンや電気の普及により需要が全滅。大正13年にすべての製蝋業者が廃業したとのこと。芳我家の家紋はカタバミ。繁殖力が強いので子孫繁栄の象徴として、武士階級でよく使われていたらしい。 中庭から見た母屋。左は作業場になっている。 芳我家の家紋はカタバミと知り、何が何でも撮らなくてはと探した。しかし、芳我家に庭や近くにはカタバミなどはなく、まるで違う空地でやっと撮影した。 内子町はもっと古い街並みが残されているかと思ったけれど、ちょっと期待はずれ。昼食は、水曜定休ばかりで、曲り角の魚屋の経営する食堂に入ったところ当たりだった。朝、来る時、我芳家のことはよく知らずにあっさり撮った商店街にあった観光臭のする大げさな蕎麦屋は、よく見たら「下芳我家」。敬意を表し改めて撮っておく。 内子町を予定より早めに切り上げて、JRで松山に戻り、特急を乗り換えて香川県多度津町に行く。多度津は、江戸時代より北前船の寄港地として栄え、金刀比羅宮へと続くこんぴら街道の玄関口として賑わったという。今も古い街並みが残っているらしい。 駅前広場の角にポツンとたたずむビジホにチェックインを済ませ、街を探索する。というより、駅前には食べる所もなくコンビニもないので食べ物探し。夕方の淋しい裏通りを抜け港の方に行く。やっとお目当ての店を見つけると、港は夕焼けの気配。 造船所が見える場所まで行ってみる。クレーンの向こうが焼け始めた。 桟橋の左にもクレーンがあった。切り取った風景もいいけれど、ワイドな風景もいい。パノラマ合成してみた。 (しまなみ海道(4)に続きます)
by otto-N
| 2017-11-13 19:49
|
Comments(0)
| |||||
ファン申請 |
||